20110501

震災以来、考えてること (1)

人間というのは集団的誤解をする動物であるのは間違いなさそうである。
私の住む日本社会は、かつて破滅的な敗戦に向かって突き進んだという悲しい経験を持つ。昭和前期の記録・資料をみると、現代の目からみるとかつての日本社会は、国民がこぞって大きな誤解の中に居たとしか思えないような状況に見える。

しかし、集団的誤解をしていたのは、本当にかつての日本社会だけなのだろうか?

戦前の日本人が馬鹿だっただけで、現在の我々は充分に賢くて無謬であると考えて良いのだろうか?
もしかすると、「ゆでガエル」になってはいないだろうか?

現在、世界各地や色々な宗教団体で、集団的誤解といえるような道理のない盲信を感じる。しかし、もしも我々がそういう社会の中に生来から帰属して至らなば、その『盲信』に何ら違和感を持たずに生活しているはずである。
過去の日本人や、他の社会の集団的誤解を指摘するからには、自分自身もまた、集団的誤解の中に居る可能性を認めるべきだろう。

ただし、集団的誤解を全面的に否定するつもりはない。
それが、社会の潤滑油になる場合もあるからであり、更にいえば人間の利己心をわざわざ詮索するのは、無用の不快感・緊張を招く場合もあるため、信仰や習慣。文化とかということにしておいた方がよい場合もあるだろう。

しかし、集団的誤解の中には有害なもの、危険なものもたくさんあるのも事実であり、昭和前期の日本社会の集団的誤解などはそうだろう。「鬼畜米英」やアジア諸国への別紙は、日本社会を破滅的戦争に導いただけでなく、現在にまで至る災厄を近隣諸国共々にも足らせてしまった。

集団的誤解が恐ろしいのは、邪な動機が「善意のオブラート」にしっかりと包まれてしまうことだろう。例えば、薬害AIDS事件における厚生省やそれに関わった免疫学者たちの措置は、製薬会社の利益を守るために大量殺人を黙認したといわれても仕方のない行為だった。
しかし、個々の厚生省職員や免疫学者たちは「他の人と同じことをしているだけ」とか「特段に自分が変わったことをしているわけではない」「決められた手続きどおり行った」というふうに、加害者意識ないし当事者意識をもっていなかった。
破滅的な結果に至って、それを他者から球団されてはじめて、いかに自分たちの組織が恐ろしい動機に支配されていたか気づく。

今回明らかになったエネルギー問題を含め、「食と農」「医療」「安全保障」など、さまざまな議論に重大な疑義を抱いており、「事の本質は、我々自身の怠慢と無責任」であろうという認識にいたった。
さすがに、今回の大震災と原発問題で、「自分たちの問題」として捉えている人々もでてきてはいるが、未だに「自身の怠慢と無責任」という現実に向き合わず議論をすり替えているものの多さに危惧は深い。

今後、数回に分けてメモを残すつもりでアップするが、「感情的な行政批判」や「原子力批判」が、実は行政とそれに癒着してきた勢力を利する結果になっている構造を考察してみたい。

もちろん、文中には行政や旧態勢力への批判はある。しかし、「もっと生活者の立場にたって、安全・安心の確保を」とか「既得権益を握る財界や学会を守るばかりで、新規参入に障壁を設けている」という類のことは行わない。
もっと深くて不快な事実を考察してみたい。

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